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「レクチャー」と「エンターテイメント」の中間に、紙芝居がハマる

以前は、5時間以上待たされた挙句に、30分の持ち時間がいきなり10分に短縮されたこともありました。

それが今では、メインイベントの1つに数えてもらえるようになりました。

紙芝居を使った認知症の啓発活動を始めて、もうすぐ2年になります。介護施設、病院、養成学校、大学、レストラン。いろいろな現場で実践してきて、聴衆は延べ1000人を超えました。アウェーの環境で信頼を勝ち取るには、やはり時間がかかります。

◆認知症イベントの「型」が見えてきた

この2年で、フィリピン国内の認知症関連イベントにたくさん参加してきました。おかげで、その「型」のようなものが見えてきました。

多くの国では、認知症は医療の分野から語られます。格式のあるイベントであればあるほど、名の知れたお医者さんが登壇し、きっちりとしたセミナーが組まれます。その合間にダンスやゲームが入り、もちろん軽食も加わります。

つまり構成要素は、専門家による「レクチャー」か、歌やダンスの「エンターテイメント」か。おおむねこの2極に分かれるのです。

けれど、認知症という話題はそもそも簡単ではありません。聴衆に合わせて難易度を調整しないと、話についていけなくなります。かといって歌やダンスは盛り上がりますが、それだけでは学びにはつながりません。

◆2極の「中間」を担う紙芝居

その2つの中間を担える存在が必要なのではないか。そのポジションにこそ、認知症紙芝居がハマるのではないか。そう考えるようになりました。

紙芝居は、聴衆との対話が命です。

難しい話をストーリーに変える。途中でクイズを出す。お客さんを指名して、意見を聞く。すると聴衆は「聴く人」から「参加する人」に変わります。

真面目に聴く時間は、お医者さんのレクチャー。私は、楽しく学べる、「レクチャー」と「エンターテイメント」の中間のポジションを狙います。

◆紙芝居がもつ「共感」の力

先日、もっと紙芝居を学ぼうと「紙芝居文化の会」に加入しました。会員特典のビデオで歴史や特徴を学んでいるのですが、その中で先生がこう言っていました。

紙芝居には「共感」を広げる力がある、と。

なるほど、紙芝居にはまだまだ私が知らない魅力が隠されていそうです。

日本の介護を世界に届けるコツは、日本の文化に包んで届けることだと思っています。

認知症紙芝居は、まだまだ進化できそうです。

言葉が通じない苦労が、認知症の人の気持ちを教えてくれる

日本就労を目指す候補者たちに、自己紹介の指導をしました。

事前に1分間の自己紹介を準備してもらいます。日本語で30秒、英語で30秒、合計1分間です。

彼女たちは家事代行の候補者です。介護や飲食業などの特定技能制度と違い、就労の条件として日本語能力は問われません。そのため、日本語力ゼロの状態で、自己紹介の日本語を丸暗記して面接に臨みます。

私は、彼女たちの自己紹介を聞いて、感想やアドバイスを伝えます。300人ほどの候補者が集まるため、ひとりひとりに時間はかけられませんが、数%でも合格の可能性を上げられるようにと心がけています。

「わたしはみぼうにん」

ある候補者が言いました。日本語の意味が分からず英語で尋ねると、「I am widowed.」という答えが返ってきました。ああ、「未亡人(みぼうにん)」のことですね。

日本語として間違いではないものの、自己紹介の場面では聞きなれない言葉です。自分なりに日本語を調べて暗記してきたのでしょう。その努力を称賛しつつ、より適切な言葉を伝えました。

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◆バングラデシュで、私が英語に逃げた話

以前は、日本語の発音や表現について、細かいところまでツッコミを入れていました。しかし、ある出来事をきっかけに、私は自分の考えを改めました。

介護講師としてバングラデシュに行った時のことです。

舞台上で自己紹介をしなければならない場面がありました。当然、母国語であるベンガル語を使えば聴衆に喜んでもらえます。

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そこで簡単な自己紹介のベンガル語を覚えようと思いましたが、すぐに断念しました。

緊張して暗記したことを忘れたらどうしよう、発音が悪くて伝わらなかったらどうしよう。そう考えると、安全策で英語を使った方が良いと思い直したのです。

そんな体験をしたからこそ、日本語を暗記して自己紹介に臨む彼女たちの姿が、私にはとても立派に思えるようになりました。

以来、日本語の細かいミスを訂正するよりも、「1分間をどう使って自分を表現するか」という全体を見て、感じたことを伝えるように指導方法を変えました。

◆面接で打ち切られる、あの絶望感

たまに、オンライン面接の場面で、日本人面接官の言っていることが理解できず、候補者が「あ、あ、……」とフリーズしてしまう場面に出くわします。

このとき、面接官が「もういいです。ありがとうございます。」と話を打ち切ることがあります。面接官も悪気があってのことではなく、日本語が伝わらないから話を切り上げたのでしょう。

しかし、会話を振られて考えている間に打ち切られる時の絶望感や虚無感は、自分が体験してみないとなかなか想像できないものだと思います。

案の定、話を打ち切られた候補者は、オンライン面接が終わったあと、虚ろな表情をしています。傍から見ていても気の毒になりました。

もし面接官に、言葉が通じずに困った経験があれば、対応の仕方も変わっていたのではないでしょうか。

◆困った体験が、認知症の人の気持ちにつながる

介護職にとって、相手の立場に立って物事を考える視点は大切です。私は、日本語がよく分からずに苦労している介護候補者には、こう伝えるようにしています。

「自分の想いが伝わらず困っている、認知症の人の気持ちが理解できるようになったね」

自分が困った体験、苦労した体験を積んだことで得られる大切な視点があると思います。新しい世界にチャレンジする彼女たちには、その機会があります。

今は大変でも、介護職として成長する糧にしてほしいと願っています。

豪雨とメガネ屋と紙芝居——フィリピンの認知症イベント奮闘記

本日、フィリピンで認知症イベントが開催されました。

直前まで会場が決まらなかったようですが、最終的にはバスケットコートのある体育館になりました。屋根付きではありましたが、一部で雨漏りがあり、おじさん達がモップでせっせと床を拭いていました。

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あいにく台風が近づいており、マイクの音をかき消すほどの豪雨の中、1時間遅れでイベントが始まりました。

会場では、なぜかメガネ屋が出店しており、50%引きでメガネを売っていました。

「認知症と何か関連があるのですか?」

売り子さんに聞いてみましたが、結局よくわからず、謎に包まれたままです。

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◆音響トラブルと豪雨のなかで

さて、開会のあいさつのあと、お医者さんによる「Brain Health and Dementia Prevention(脳の健康と認知症予防)」のレクチャーがありました。

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案の定、音響トラブルが発生し、マイクが全然機能していません。外は豪雨です。一生懸命話しているのに聞こえず、気の毒になりました。

しばらくしたら、自分も同じ目に遭うのか……。

そう思うと、まったく他人事ではありません。幸い、途中から音響が復活してくれたので助かりました。

広い体育館。外は豪雨。聴衆は地元の人々。

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このシチュエーションでプレゼンをするのは、なかなかの難易度です。小さい子供もいれば、高齢者のグループもいます。30分間、彼らの関心をひきつけ続けるのは至難の業です。

◆苦い経験が、血肉になっていた

とはいえ、私もそれなりに修羅場を潜り抜けてきました。こういう状況を想定して、景品のお菓子を多めに用意したのです。

クイズとお菓子で関心をひきつけつつ、その合間に認知症ケアの大切なエッセンスを組み込んでいく。それでも後半は聴衆の集中力が切れてきたので、話を省略して切り上げました。

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以前の自分なら、時間調整も関心を保つ術も知らず、ステージ上でピエロになっていたと思います。苦い経験がしっかり血肉になっていることを、実感しました。

◆一人の観客との出会い

パフォーマンスのあと、一人の観客が近づいてきました。

「すごく分かりやすくてよかった!プレゼンの写真を使ってもいいですか?」

田舎にいる家族に、今日の話を伝えたいのだそうです。その田舎では、高齢者への虐待もあるといいます。

彼はNational Commission of Senior Citizens(国家高齢者委員会/日本でいう厚労省の高齢者部門にあたる政府機関)で働いており、だからこそ認知症教育の必要性を肌で感じていたのでしょう。

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認知症紙芝居のオンラインプログラムも行っていると伝えると、同僚と受講できるよう上司に話をしてくれるとのことでした。

こんな感じで、一人でも誰かの心に響いたのなら大成功です。泥臭くも、着実に、日本の介護を世界に届けていきます。

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太ってはいけない理由——介護講師とボクシングの話

私は週3回ボクシングジムに通っています。月12回通えるチケットを先に購入するのですが、1か月経つと失効してしまうので、「行かないともったいない」という気持ちも手伝って、半ば強制的に通っています。

ジムに通っていることを免罪符にして炭水化物を取り過ぎた結果、太りました。加齢とともに新陳代謝も衰えたのでしょう。食生活と運動習慣の見直しを迫られました。

私には、太ってはいけない理由があります。

◆介護講師が体型を整えるべき理由

外国人ケアワーカーの教育にあたって、説得力が失われるからです。

介護は、日常生活支援の専門職です。人様の日常生活をサポートするのが仕事です。そのサポートする側の日常生活が乱れていたら、やはり問題でしょう。

そして、その人の日常生活の様子をダイレクトに映し出すのが、身体の状態です。自分の身体を整えられていなければ、良いケアはできません。

介護は、肉体労働でもあります。

どんなに崇高な理念や豊富な知識があっても、現場で身体が動かなければ役に立ちません。

海外から働きに来る介護労働者であれば、なおさら体のコンディションを整えておくことが大切です。ある意味では、日本語力よりも、介護技術よりも、自分のコンディションを整える力の方が重要だとさえ言えます。

◆アウェーで働くために必要な「自己管理の力」

アウェーの環境での介護の仕事は、体力も気力も消耗が激しいものです。私も自分で経験したからよくわかります。

20代ならまだしも、30代後半から40代にかけて海外に出るのであれば、なおさら自らの身体と真剣に向き合う必要があります。

私は介護という職業柄、人生経験を積んだ30代後半から40代の女性を、候補者として強く推しています。彼女たちの新しいキャリア形成としても、日本での介護の仕事はとても良いと思うからです。

ただし、加齢とともに身体は確実に変化していきます。だからこそ、彼女たちには、日本で活躍するために、自己管理の術を身につけるようアドバイスをしています。

◆ボクシングと介護がつながった

私は痩せたり太ったりを繰り返してきたので、体型や体調の整え方はある程度は心得ています。20代の頃から続けてきたボクシングも、今になって別の価値をもたらしてくれました。

コンディションを整える手法としての価値です。

ボクシングを始めたきっかけは、海外で生きていくための護身術を身につけることでした。

それが、海外で暮らすようになってからは人から舐められないため、そして40代後半になってからはコンディションを整えるためと、その役割は少しずつ変化してきました。

今の目標は、4Rのミット打ちを続けられるくらいの体力に戻すことです。

じつは先月まで、私は2Rでヘロヘロになっていました。歳のせいだから仕方がない、とあきらめかけていました。ところが、食生活と運動習慣を見直したところ、3Rまで体力が持つようになりました。

そこで、気づいたのです。

中年のボクシングは、技術や根性ではなく、日常生活を整えることが何よりも大切だと。ボクシングと介護がつながりました。

外国人ケアワーカーの良いお手本になるためにも、戦うためのボクシングではなく、日常生活を整えるためのボクシングを、これからも続けていきます。

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「おかあちゃん」と泣いたおばあさん——想像力という介護の力

学生時代、老人ホームで介護のアルバイトをしていた時のことです。

食堂で、いつもはおとなしいおばあさんが、突然「おかあちゃーん」と大声で泣き始めました。茶碗を手に持ったまま、席に座って、わんわんと泣いたのです。

驚いた以上に衝撃だったのは、90代のそのおばあさんが、泣き叫びながら、強く母親を求めていたことです。

おばあさんが、母親を求める。

それがどういうことなのか、20代の私にはうまくのみ込めませんでした。子や孫から頼られる存在のはずのおばあさんが、自分の親を、しかも、もうこの世にいない母を求めていたのです。

彼女は認知症をもっていました。

なんらかのきっかけで、意識がふっと幼い頃へタイムスリップしたのでしょう。90代のおばあさんが、まるで母を探す小さな女の子のようでした。

あの頃の私には、おばあさんの内側で何が起きているのかを、全く想像できませんでした。

◆認知症の人の「内側」を描いた朗読劇

先日、介護クラスで認知症をテーマにした朗読劇を行いました。

使用した台本は、認知症のお母さんが娘へ贈るメッセージを描いた絵本『ありがとうをつたえたくて』です。それを英訳し、朗読劇用にアレンジしました。

私はずっと、認知症の人自身が世界をどう見ているのかを学べる教材を探していました。医療従事者や家族から見た姿ではなく、その人の内側がわかるものです。この作品には、まさにそれがありました。

配役は、ナレーター、認知症のお母さん、娘さん、そして、お母さんの「内側の声」。表には出てこない本当の気持ちを台詞にした役です。

劇の中に、こんな場面があります。

お母さんが引き出しを何度も開け閉めしながら、「ない……ない……どこ?」と探しはじめる。娘には、その行動がただ不思議に映ります。でも、内側の声はこう語るのです。

私が探していたのはね、自転車じゃないの。 お父さん。 お父さんが使っていた自転車置き場を通るとね、そこにいるような気がしてね。 もういないことはわかっていたの。でも、いるような気がしてね。

不可解な行動の奥に、亡き夫を探す妻の想いがある。表からは絶対に見えないその内側を、この劇は聞かせてくれます。

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◆先生の涙が、若い生徒たちに伝えたもの

今回、娘役を50代のフィリピン人の先生にお願いしました。台詞はなく、ただ舞台にいてくれるだけの役です。

ところが、その先生が劇の途中から涙し、その涙につられて、若い生徒たちも泣き始めたのです。

劇の後、先生が感想を話してくれました。

親を介護し、看取り、子も孫もいる。娘、母、祖母――人生で三役を演じてきた彼女の物語が、劇と重なって涙があふれたのだと語ってくれました。

正直、介護も子育ても経験のない20代の若者に、この物語を本当の意味で理解するのは難しいと思います。かつての私がそうでした。しかし、身近にいる先生の涙に心を揺さぶられ、若い彼らも、この物語の核心に触れられたのだと思います。

◆目の前のおばあさんは、誰かの「お母さん」

介護職にとって、施設で暮らす認知症のおばあさんは、認知症のおばあさんでしかありません。

でも、その目の前のおばあさんは、誰かの大切な「お母さん」。

そして、そのお母さんも、天国の誰かの大切な「娘さん」。

劇の終盤、娘にそっと手をなでられたお母さんの内側の声が、こうつぶやきます。

あなたがやさしくふれてくれると、 なんだかお母さんになでてもらっているようで、 母との時間が戻ってきたようで、幸せを感じています。

娘に触れられて、自分の母を思い出す。

あの日、食堂で母を求めて泣いたおばあさんの内面が、今なら、ほんの少しだけ想像できる気がします。

想像力は、誰かの涙や、こうした物語を通して、少しずつ育てていくものかもしれません。

私は、そんな想像力こそ、介護職にとって大切な力なのではないかと思っています。

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